言葉にできない

実は小田和正も好き

SNS時代のアイドルについて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さあブログを書くぞ🎶」って時に自担より先に別のアイドルの話をしてごめんなさい。ホットな気持ちはホットな内に書いておきたいんじゃ。

ということで、当方、矢花黎にハマっております。

 

(以降は敬意を込めて矢花と呼ばせていただきます)(敬称略)

矢花になぜハマったのか、いつからハマったのか、どういう感情を抱いているのか書きたいところではありますが、それはまた今度とさせていただきます。今回このような記事を書こうと思ったのは、何を隠そう、矢花のブログを読んでしまったからです。あの内容に自らの意見を述べたくなってしまったのです。本人が望んでいるので僭越ながら、本記事をツイートする際はハッシュタグを使用させていただきますが、決して読んでほしいわけではありません、いや、やっぱり読んで…いや、読まないで…恥ずかしいから……。いや、どうせ読まれない‼️なぜならここは太平洋よりも広い海の中だから‼️色々許してください‼️‼️

 

 

 

 

 

わたしがアイドルについて考察を述べるとき、考えの元となっているのは『アイドル/メディア論講義』という本である。

 

 

ざっくりいうと、メディア論の視点からアイドルを定義づけるものとは何かについて書かれている。これから書く文章はこの本の受け売りであったり、そこから派生している考えになります。

 

 

わたしがあのブログを読んで、アイドル本人が自己像と理想像を近づけようとしていたということに衝撃を受けた。自己像と理想像を近づけようとするのはファンのほうであると思っていたからだ。

 

アイドルとファンの間には、1枚、窓がある。テレビであったり、雑誌であったり、舞台・コンサート、ラジオもそうだ。なにかメディアを挟まなければアイドルを見ることはできない。そのメディアのことを窓と表している。窓を隔てている限り、わたしたちの知るアイドルはあくまで「窓越しのアイドル」であり、アイドル本人のその中(=矢花でいうところの自己像)を窺い知ることはできない。しかし、見えないものを見ようとするのがファン心理である(天体観測?)。窓越しにも、その自己像の片鱗を探そうとする。「本当はどんな人なのか」を知りたくて雑誌を読んだり、表情を深読みしたり、底辺まで行くとストーカー行為に及んだりするのだと思う。

 

即ち、アイドルという存在は「自己像と理想像を乖離させることによって、人々に多くの理想を与える存在」だとわたしは考える。即ちってる?この文章?大丈夫?文章ごちゃごちゃしがちなのは許して、フィーリングで読んで、ブログ書くことによってそれを治そうとしてるから。

では矢花の目指す「自己像と理想像が近づいている存在」とは何なのか。わたしはそれはYouTuberだと思う。とことんまで素を曝け出し、彼らは理想もへったくれもない。わたしの推してるYouTuberは彼女ができたらすぐ報告するし、住所もほぼバレてるし、自身の性行為についてだって事細かに話す。しかしファンはついているのだ。アイドル化するYouTuberについても考察を巡らせたいところだが、つまり矢花はアイドルの中でもYouTuberに近い存在なのではないだろうか。だから何?って話だな我ながら。ここの考えは徐々に詰めていきたいと思います。

 

 

 

なぜ矢花が自己像と理想像の乖離に苦しんでるか、わたしには分かりようがない。しかし良いイメージだけでなく、悪いイメージが蔓延してるとしたら、たしかにそれは嫌よね。ただ矢花の言う通り、自分のしたいようにしていけば、理想像は勝手についてくるものだと思う。大抵のオタクは自担にすくすく育ってもらいたいと思っているものだから、気にせずそのまま突き進んでほしい、と思う。

 

 

■今日のまとめ

 

・そもそも自己像と理想像が乖離しているからこそアイドルである。理想像を自由に操ることができる点がアイドルたる所以なのではないか。

・自己像と理想像を近づける=なるべく素を見せるならそれはYouTuberなのではないか。まあYouTuber的だからこそ矢花は輝いているのかもしれない。

・矢花がなぜ自己像と理想像の乖離に苦しんでいるかはわたしには分からない。別によくね?とも思うけど、良いイメージでなく悪いイメージが蔓延っているならたしかにそれは嫌よね。

・でも矢花のいう通り、自分のしたいようにしていけば、理想像も勝手についてくると思うよ。

・というかそれを話してくれることに、矢花という確立されたアイドル性を感じる。唯一無二のSNS時代のアイドル、最高だよ。

 

 

 

 

長文書くと話があっち行ったりこっち行ったりすることが悩み。たぶん一貫性のない文章だと思う。あえてコンプレックスを曝け出すことにより、自らの成長を促したい。わたしの成長のためにこの記事を読むという犠牲になってくれた方全てに感謝と謝罪を。